スピッツの魅力 ⑤ 蘇(よみがえ)る死者-1

1 死の原体験

人間は何歳頃、「死」というものを意識するのだろうか?それはおそらく子供の頃、身近な人(じいちゃんやばあちゃんとか)の死を目の当たりにしたときからだろう。とくに身内の死であれば、今まで身近に居た人が、わずかの間に、小さな骨になって帰ってきたときの衝撃は忘れられない。その時、子供心に人間の避けられない運命をおぼろげながら悟り、得体の知れない恐怖に襲われる。そして、自分に問いかける。

「死者はどこに行ったのだろう?今も心の中に昨日のように生きているのに」と。

正宗さんも、小さい頃、周りの身近な人の死に遭遇し、恐怖におののいたらしい。そして、大人になるにつれて、「死」の対極として「性(=セックス)」を置くようになった。なぜなら、それこそが人間を「死」の恐怖から解放し、救済してくれると思われたからだ。

正宗さんにとって「性(=セックス)」とは生きる証であり、愛すること、生きることと「同値」なのである。

そして、正宗さんにとって死者は決して死なない。ときどき、蘇ってきてともに語り合い、愛し合い、互いに笑いかける。つまり、死者はかれの分身としてずっと生き続けるのだ。

2 「楓」について


「楓」という曲には、正宗さんの死生観がよく反映されている。
♪さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
♪ああ、僕のままで どこまで届くだろう

いきなり、サビの解説になるのだが、この歌のすべての意味が、この2行のサビに込められている。これは単なる「別れの歌」ではない。もはや、恋人はいない、死別している。だから、君の声を抱いて歩いていく、ずっと彼女のことを思って生きていくということだ。

君を失った僕は、「僕のままで」生き続けて行けるのだろうか?自信がないからどこまで届くだろうと問いかける。いつか、自分を支えられなくなるかもしれないから。

この曲の中で「楓」という名前は一度もでてこない。あるとしたら、

♪風が吹いて飛ばされそうな 軽いタマシイで

の一節のみである。楓が儚く散る様(さま)と二人の人生をオーバーラップしているのかもしれない。

♪瞬きするほど長い季節が来て
♪呼び合う名前がこだまし始める
♪聞こえる?

「瞬きするほどの」の逆説的な言い方にしびれる。

もはや、死者と呼び合っている、その声はこだまし始めるのだ、死者は蘇って、作者の心の中で生き続けるのだ。

エンディングが素晴らしい。

♪ああ 僕のままで どこまで届くだろう
♪ああ 君の声を

君の声をさがすように、消え入るように終わる

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