日本史のミステリー② 本能寺の変―1
1 NHK大河ドラマでの本能寺の変
NHK大河ドラマでは何回も「本能寺の変」の一こまが演じられている。古いところで、「太閤記」では、織田信長を高橋幸治、明智光秀を佐藤慶。「国盗り物語」では、織田信長を高橋英樹、明智光秀を近藤正臣、新しいところで、「軍師官兵衛」では、織田信長を江口洋介、明智光秀を春風亭小朝が演じた。どのドラマでも際立って信長がかっこいいし、俳優もみんなイケメンだ。だから、熱烈なファンからは、もっと見たいので、「本能寺の変」はできるだけ引き延ばしてくれとの要望が殺到したという。信長はスマートだが短気な性格、一方の光秀はインテリでネクラ、やや悪役的なイメージで演じられる。
信長は、気に入らなければ、光秀を、今でいうパワハラ、モラハラで人目かまわず苛め、辱め、結局、光秀の怨みを買うことになる。そして、最後に怨恨が沸騰し、謀反に至るという筋書きである。
2 明智憲三郎さん衝撃的デヴュー
最近、光秀、信長像を一新する「本能寺の変431年目の真実」という本が出た。著者は明智憲三郎という人で、何でも明智光秀の子孫であるらしい(現在は情報関連の一流企業で活躍中)。明智さんはこの他にも「本能寺の変427年目の真実」、「織田信長433年目の真実」「本能寺の変は変だ」も出版されている。わたしはこれらをすべて読んだ。
著者の意図は、歪められた光秀像と信長像を、真実の姿に戻すことであった。
後の支配者、特に秀吉によって捏造され、逆臣、犯罪者となった光秀が、実は知略に富んだ合理的な思考の持ち主であり、一時的な感情や怨恨で行動する人ではないことを、そして「本能寺の変」は、光秀が土岐明智一族の未来を憂い、やむを得ず起こした行動であることを立証しようとしている。明智さんは、400年以上の永きに亘って、明智一族が名前を隠したりして、肩身の狭い思いをしながら細々と生き延びてきたと言われる。
明智さんは、過去の膨大な資料集めと情報収集を重ね、多大な時間を掛けて、新しい事実を検証されている。それにしても、明智さんの執念たるや凄い。なんとしても、明智家の汚名を挽回せんとする執念には感心する。
以下、しばらく明智さんの本のダイジェストまたは解説になります。
3 誰が作った光秀、信長像?
さて、テレビドラマの信長のキャラクターはみんな同じである。頭が切れ、行動力があり、カッコいいが、気が短く残虐である。それゆえ、インテリで内向的な光秀とは馬が合わず仲が悪かったとされる。
実はこのイメージ、後日、秀吉が作ったものである。秀吉は光秀を討った四か月後1582年10月に、召し抱えていた御伽衆(おとぎしゅう)の大村由己(ゆうこ)に「惟任(これとう)退治記」を書かせている。惟任とは明智光秀のことであるから、光秀を逆臣、悪者に仕立て上げ、この仇を討つというシナリオである。秀吉は信長のキャラクターも定着させた。気が荒く、残虐、おまけに異常に好色でもあったとの尾ひれも付けている。
実は、「信長公記(しんちょうこうき)」には信長と光秀の関係は極めて良好であったと記されている。この書物は、織田信長に仕え武功をあげた太田牛一が、秀吉没後に書いたものであり、比較的信ぴょう性の高いとされる書物である。
徳川家康が没してからは、「川角(かわすみ)太閤記」「甫庵(ほあん)太閤記」が出版されるが、これはもうでたらめの物語で、「惟任退治記」をもっと面白く脚色したものである。
吉川英治の「新書太閤記」も司馬遼太郎の「国盗り物語」もこれらの延長線上にある作り話である。余談だが、最近、司馬遼太郎史観なるものが独り歩きしているが、司馬遼太郎は小説家であって歴史家でない。全くの作り話をまるで自分が今見聞きしてきたように語る天才であり、楽しい嘘が大好きな人である。
まあ、光秀も信長も、後世の支配者の捏造により、面白おかしく語られてきたということになる。
初めまして、鷲谷と申します。
この度本能寺の変を題材とした記事を書かせていただいたのですが、その際に増井さんのこちらの記事を参考にさせていただきました。
創作における織田信長像を追っていらっしゃいますが、その観点で詳しく調べ、まとめてみると面白そうですね。
秀吉による改変以前の織田信長像を見つけ出すのは難しいかもしれませんが、江戸時代初期、中期、後期、明治…と追っていくと傾向が見られるかもしれませんね。
それと、誠に勝手ながら自ブログにて増井さんの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!
(僕自身、ロックが好きで演奏することもあるので、増井さんのロックが好きな部分にも共感できる気がしています)