日本史のミステリー④ 本能寺の変-3

1 家康をなぜ?

明智憲三郎さんの説で、もっとも意表を突くのは、「信長が光秀との間で画策し、家康を本能寺に呼んで、そこで光秀に討たせる」という仮説である。信長と光秀は安土桃山城で、この密談を行っていたという。
本能寺では、変の前日、盛大な茶会が催されていた。そこには、大御所の公家たちや九州から島井宗達(茶人)などが呼ばれていた。信長は自分が集めた茶器(名品)の鑑賞会もかねて(自己の権力を、誇示するため)、何らかの政治的意図のある大イベントを開催していたわけだ。
こんな忙しい茶会の翌日になぜ本能寺に家康を呼ぶのかよく分からない。

2 信長は裏切られない限り、味方同胞を先に討つことは決してない

その1 弟信行の暗殺

信長は、弟の信行を病に伏していると嘘をついて、見舞いに来たところを暗殺している。これだけ捉えると信長は随分卑怯なやり方で信行を討っているかに見える。しかし、信行は母親の土田御前が裏で糸を引き、柴田勝家らとともに、信長の居城を攻めたことがある。信長はこの戦いで勝っており、その時、信行は母親を立てて謝罪したにもかかわらず、もう一度信長を討とうとした。信長はやむを得ず策を施し信行を暗殺した。

その2 信長は、徳川家康の嫡男、信康を切腹させた

まず、この事件の真相を理解するには、信康の姻戚関係を正しく理解する必要がある。

姻戚関係図

織田徳川姻戚関係図

信康のお母さん、築山殿(瀬名姫)は今川家の重臣の娘で、またそのお母さんも今川義元の妹であった。そして、桶狭間の合戦の後、家康が信長と同盟を結んだために、築山殿の父は自害させられている。築山殿はそのことで家康をひどく恨んでいた。そして、息子である信康に嫁いできたのは信長の娘の徳姫である。この嫁と姑で、仲がよかろうはずがない。母親の影響を強く受けた信康は武田氏に深く入り込み、岡崎城を構えることとなった。
一方、家康は浜松城を居城としていた。最終的には徳姫の信長への告げ口(信康が武田勝頼と密通しているという内容)によって、信長の怒りを買い自害させられた。しかし、最近の説では家康と信康の内部権力争いに過ぎず、酒井忠次を筆頭とする家康派閥が、信康の失脚を図ったのではないかと言われている。

この事件の後も、信長と家康の同盟関係は揺るぐことなく強固なものとなっている。そして、「信長が信康を切腹させた」というのも、徳川家にとって嫡男の切腹を家康が命じたとなると、あまりに格好悪いので、信長に罪を押し付けたのではないかという疑いも持たれている。

以上、二つの例を挙げたが、ここでも信長自らが先に味方や同胞を攻めたり討ったりはしていないことが明らかである。

3 家康を討つ大義名分がないし、家康の利用価値は大きい

家康は信長を一度も裏切ったことがない。二人の同盟関係は初期の清州同盟の頃から、しだいにより強固なものになっていき、武田氏討伐の頃には、家康が信長に臣従する関係へと変わっていった。そして、律儀なほど家康は信長に忠実であった。桶狭間の合戦の後、家康は「今川」から「織田」に船を乗り換えた。それだけの魅力と器量が信長にあったということだ。
いかに、信長が策略家であったとしても、頼もしい味方を裏切っては、信用をなくしてしまう。そして、そのような裏切り行為を自らが行えば、秀吉や光秀や柴田勝家など他の武将たちも、信長に付いて行くわけがないだろう。戦国時代であればこそ、また人間同士の信義も重んじられるのである。信長がそんな汚い手口で家康を討つとは、わたしには到底考えられないのだ。
また、本能寺の変当時、信長にとって家康は利用価値が非常に高い。三河の東北向こうには北条氏、伊達氏、そして上杉氏もいる。これらの侵略の防波堤になっているのが徳川家康である。しかも、三河武士は質実剛健、根性があり強い。彼らは絶対に家康を守り抜く。
信長にとっても、こんな家康は頼りになる味方である。

4 その他の疑問

1 家康を討つならいつでもできた。

家康の饗応役を預かっていた光秀なら、別に本能寺でなくてもいつでも家康を討つことができたはずだ。安土城でも討てたし、堺見物の時でも討てたはずである。盛大な茶会の後にわざわざ家康を呼んで、イベント会場であった本能寺を汚すことを、信長が望んだろうか?やるならとっくにやっていただろうし、討ちたいなら自分でも討てたはずである。

2 光秀の兵の証言?

光秀の兵士、本条惣右衛門の残した手記には「信長を討つとは夢にも知らなかった。京都に向かうというので、上洛中の家康を討つものだとばかり思っていた。」とあるので明智憲三郎さんは、これを重要な証拠の一つとして挙げられているが、変の当日、主君の信長を討つとは及びもつかないわけだから、もしかしたら家康なのかもと思っただけであろう。また、こんな重大な秘密が巷に漏れることもあり得ない。

3 黒人小姓、彌助(やすけ)の証言

信長が可愛がっていた黒人小姓彌助が、本能寺から脱出した後、南蛮寺に逃げ込んだ。かれが、イエズス会の関係者たちに話したことが、ヒロンが著した「日本王国記」に記されているらしい。その中で信長が最期に語った言葉がある。それは、信長は口に手をあてて「余は自ら死を招いたな」と言ったと書かれているらしい。
しかし、ただこれだけでは家康を討とうとしたことの証拠にはならない。信長が自分の人生を走馬灯のように回想して、自省と悔しゅんの念でつぶやいた一言かもしれない。

以上、思いつくままに述べてきたが、今のところ、わたしには、家康暗殺計画という視点は全くない。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください