日本史のミステリー③ 本能寺の変-2
1 動機はミステリーのまま
本能寺の変については、その動機について、作家や歴史学者の説は百花繚乱(ひゃっかりょうらん)といったところで、まず、
① 単独犯なのか、
② 黒幕が存在するのか、
で分かれ①については野望説、怨恨説、突発説、ノイロゼー説、暴君討伐説、朝廷保護説など、②については、朝廷、秀吉、毛利輝元、家康、義昭、堺商人などの黒幕説がある。あまりにミステリーなので、解釈自由といったところだが、いずれの説もストンとは、腑に落ちない。
2 明智憲三郎氏、大胆な仮説
明智憲三郎氏は推理小説を解くような大胆なトリックを思いついた。
信長は、家康を本能寺に招き、そこで茶会と信長自慢の茶器鑑賞会を行う予定だった。そして、信長が席をはずしたどこかの時間帯で、家康を光秀に討たせるつもりだったというのである。その謀略は安土城で、信長と光秀との間で密かに行われていたという。
当初、家康の接待饗応役は光秀が引き受けていたが、光秀に何かの手落ちがあったとして、信長が怒って、その役を急に外した。その後、信長は、中国毛利攻めを行っている秀吉を支援するよう軍勢の準備を光秀に要請した。そのため、光秀は中国攻め軍勢(本来は家康を討つ軍勢)をいったん阪本城に集めて待機していた。これらも家康に油断させるためカムフラージュだったという。
家康は安土城で信長と会って、その後、堺見物を終えたあと、信長の上洛命令により本能寺に向かう予定であった。その時、信長は小姓30人ほどとわずかの手勢で本能寺に泊まっている。光秀の軍勢は中国に向かわず、本能寺に方向チェンジするだけで、容易に信長を討つことができたというわけである。
さらに、家康はこの謀略を光秀から饗応を受けた時に光秀から聞いており、二人はある種の軍事同盟を結んだとしている。言い換えると、家康にとって、光秀は「命の恩人」ということになる。
3 信長が油断したわけ
信長は自分が最も信頼していた光秀との間で企てた謀略であるから、その謀略を一緒に企てた光秀が裏切るとは想像だにしなかったと思われる。それで、信長はわずかの小姓と手勢で本能寺に入った。もちろんそのことで家康も安心して本能寺に入ることができるというわけだ。
さて、明智憲三郎氏のこの説は、魅力的だが、あまりにも大胆な仮説なのでにわかに信じることはできない。
なによりも、あの時点で信長が家康を討たなければならない理由が今一釈然としない。
それと、6月1日(本能寺の変前日)に盛大に行われた茶会との関連もよくわからない。
これらにつき、少し検討してみたい。