ボブ・ディランについて書いてみたい① まずは出会いから

大学時代、友人の家のオーディオで、ボブ・ディラン(以下ディランと呼ぶ)とニール・ヤングを初めて聴いた。
ディランのしゃがれ声とヤングの艶っぽい声、どちらもメロディは綺麗ではなかったが、妙に耳に残った。それはビートルズとは全く違う音楽だった。
二人ともすぐに好きになったが、ボブ・ディランの声にはとくに惹かれた。

「風に吹かれて」「くよくよするなよ」も、最初、P・P・Mの美しいコーラスを聴いていたから、ディランのぶっきらぼうな、語り調には面食らった。でも、聴きこんでいくうちに、段々、癖になっていった。
昔から、辛い物、苦い物、臭い物、が好きだった。香料ならバリのサンバル、コーヒーなら濃いブラック、チーズなら羊のブルーチーズ? そんなあくの強い音楽、それがボブ・ディランだった。アルバム「フリーホウーリン」はディランが20代の作品だが、全曲が、おっさんのダミ声で貫かれている。

アルバムの始めは、あの有名な「風に吹かれて」から始まる。
「The answer my friend is blowing in the wind the answer is blowing in the wind」
語尾を切り捨てるようクールに歌う。

「How many roads must a man walk down」は、奴隷売買のとき、奴隷黒人を台の上に乗せ、オークション(せり)にかける際の、「掛け声」からヒントを得たと言われる。
ゆらゆらとなんとも不安定なハーモニカの響きが秀逸である。

「激しい雨が降る」は詩が素晴らしい。世界の終末をこんなに美しく表現した歌はほかにないだろう。激しい雨とは当時、米ソ間で繰り広げられていた核実験競争の放射能の雨を連想させる。キューバ問題で、米・ソは、一触即発で第3次世界大戦に突入するのではないかと、世界中を震え上がらせた。
和訳で少しだけ紹介しよう。

♫何を見てきたの、青い目のむすこ
何を見てきたの かわいい子供
狼に囲まれた 生まれたての赤ん坊を見たよ
誰もいないダイヤモンドのハイウェイを見たよ
血が流れ続ける黒い枝を見たよ
血だらけのハンマーを持った男たちでいっぱいの部屋を見たよ
水に沈んだ梯子を見たよ
舌を抜かれた1万人のおしゃべりを見たよ
銃と剣を持つ小さな子供たちを見たよ
それで、激しい、激しい、激しい、
雨が 降っていたんだ🎵

「くよくよするなよ」は、別れた女のことを思い出し、何度も何度も「don’t  think twice it‘s all right」(くよくよするなよ)と吐き捨てるように歌う。

♫俺はハートをくれてやったが、あいつは魂まで欲しがった🎵 と、どこまでも未練たらしい。淡々と歌うから余計に悲しくなってくる。別れた彼女は、ニューヨークの街をディランと仲良く腕を組んで歩くジャケットの写真の相手スージー・ロトロだ。

「フリーホウーリン」のジャケットのご機嫌な顔に対して、次のアルバム「時代は変わる」の苦虫を噛み潰したような不機嫌な顔はどうだ?まさに、プロテストソングの第一人者、フォークの神様の頃の顔である。しかし、この顔はディランの本当の顔ではなかった。
というのも、そのように、「自己を勝手に定義される」ことこそ、ディランの最も嫌うことだったからである。その後、ファンはそのことを思い知らされることになる。ディランは何度も何度もファンを裏切り、変幻自在な顔を見せていく。まるで「おれはいつも自由なんだ」と叫ぶように。
しかし、ディランの歌をよく観察すると、初期の歌のなかにも、「自由と変化への渇望」のようなものが至る所に漂っている。生々流転の人生こそがかれの哲学であり、まるでそれは「老荘思想」や「仏陀」にも通じるものがある。

次回は、初期の作品からディランの本質に迫っていきたいと思う。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください