日本史のミステリー⑧ 捏造の明治維新4 薩長のテロ
1 「明治維新という過ち」原田伊織著 について
原田伊織さんは、明治維新の歴史を、勝者いわゆる薩長の立場からではなく、敗者である徳川幕府や会津藩の立場から、根本的に見直そうとされている。主な著書は、「明治維新という過ち」「大西郷という虚像」「官賊と幕臣たち」などである。これら三冊とも非常に興味深い本で、明治維新の麗しき歴史は、すべて薩長の捏造であり、それはテロリズムにより実現されたものであるという。
著者の「長州、憎し」の感情論を除けば、ほとんどが事実の通りであろう。
「尊王攘夷派の幕末志士」は、吉田松陰を筆頭に、伊藤博文、高杉晋作、山形有朋、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など、すべて「暗殺集団」テロリストだったという。
吉田松陰は、志士たちの精神的バックボーンとなった英雄として崇められているが、明治に入ってから、山形有朋らによって、でっち上げられた虚像であり、「松下村塾」は松陰の叔父の小さな私塾で、ほとんど実態がなく、「松下村塾=松陰」のイメージも後世の捏造であるという。吉田松陰は長州での過激な乱暴者の一人にすぎず、長州藩も幕府も手を焼いていた厄介者であったらしい。
2 長州が御所を砲撃したのは日本史に残る汚点
薩長は、天皇をただただ倒幕のために利用しただけであり、心から尊王(天皇を敬う)の思いがあるなら、「禁門の変」で、御所に砲弾を撃ち込んだりはしないだろう。もとより、御所の塀はこのような戦闘に備えられておらず、低く構えられている。過去、誰も、そこを攻撃するような不届きものはいなかったからである。
長州藩士のこのような荒っぽい気風が、どこから生まれたのかはよくわからないが、藩主の権力が弱かったこと、関ヶ原合戦で敗北したことで、徳川幕府への恨みの念が強かったことなどが、一般的に挙げられるが研究する価値はあるだろう。
いずれにしても、この事変は、長州藩の最大の汚点であり、取り返しのつかない間違いを犯したといえる。結局、「禁門の変」により、孝明天皇
の怒りを買ってしまい、長州征伐の勅許が下り、長州はこれ以後、朝敵となる。追い詰められた長州はどのようにしてこの苦境を脱したのか?この苦境を救ったのが薩長同盟だが、この軍事同盟は薩摩藩の幕府への最大の裏切りであった。というのも、「禁門の変」で、薩摩藩は長州を討つ側にあり、西郷隆盛もこれを指揮していたからである。この薩摩藩の変節は、徳川慶喜と幕府を驚かせ、落胆させた。このショックは尾を引き、徳川慶喜のその後の政治判断、軍事判断を誤らせた。
「薩長同盟」は坂本龍馬の仲介で成立しており、背後に武器商人トマス・グラバーの働きかけがあったことはほとんど明白である。そうでないと、「薩摩憎し」であった長州が、薩摩と手を組むわけがない。死の商人・グラバーは、薩長に討幕をさせ、戦争を起こし、武器を消費させ、しこたま儲けることが狙いであった。もちろん、討幕後も新政権にも支配力を及ぼしていくつもりであった。薩長に肩入れしたのはグラバーであり、その背後にイギリス政府が絡んでいる。孝明天皇の命を受け、徳川慶喜は第二次長州征伐に向かうが、これが惨憺たる敗北となる。
しかし、この結果、フランスがイギリスへの対抗心を露わにし、親幕府の姿勢を打ち出す。
フランス公使ロッシュはイギリスの汚いやり口を批判し、「正義を愛するフランスは日本を侵略しない。生糸を輸入しその代わりフランスの武器を輸出する」という政策を示し、これが幕府の利益と一致したので、二国の友好関係は一挙に深まる。イギリスの汚いやり口というのは、世界の大国イギリスが内政干渉を行い、しかも、正統政府に反旗を翻す長州藩を支援し、薩摩藩を巻き込んで内戦に持ち込もうとするのは、異常な行動であるという。まあ、イギリスはいつも世界各国の反政府軍に肩入れし、内戦を起こさせ、武器を売り込みしこたま儲ける、あくどい国ではあるが(笑)。
3 孝明天皇の突然の崩御(病死)
孝明天皇が君臨している限り、長州は朝廷に頭が上がらない。そこで、薩長はあらゆる画策を公家たちと図る。岩倉具視は孝明天皇の崩御の後、幼少の明治天皇を立てながら、巧妙に公家を巻き込み、薩長に有利になるように働きかける。一つ疑念が残るのは孝明天皇の急死と睦仁親王の急死であるが、薩長が暗殺に関与しているという説も、あながち否定はできない。特に、岩倉具視や伊藤博文はかなり怪しい人物と言われている。
いずれにしても、薩長の手口は汚かった。鳥羽の戦いでは偽の勅許や錦旗を挙げ、徳川慶喜に朝敵の刻印を押した。徳川慶喜は、まんまと薩長の陰謀に嵌ってしまい、大軍を放置して、江戸に逃げ帰るという醜態を演じる。この慶喜というお坊ちゃまは、幕府の総大将でありながら、まったく肝が据わっていなかった。この「鳥羽の戦いでの慶喜の逃亡」こそ、その後の明治維新に至るまでの流れ、つまり、薩長が天下を牛耳るという歴史の流れを決定的にしたのである。