日本史のミステリー⑦ 捏造の明治維新 3 尊王思想の矛盾

1 尊王思想と開国

幕末、水戸藩で唱えられた尊王思想は、各藩のみならず、幕府そのものにも多大な影響を与えた。元々、江戸幕府は独裁主義的権力を握っていたように見えるが、それほどでもなかった。経済力においても軍事力においても、各藩に対して圧倒的に強大なものではなかった。たとえば、幕府はその石高においても、高々四百万石ほどで、加賀の前田家で百万石であるから、わずかその四倍程度に過ぎなかったのである。

そして、幕府の政権が長期化するに連れ、制度疲労や財政難から、幕府の権力も次第に衰えていった。そんな中で、「尊王思想」は独り歩きし出し、天皇を最高権威に置き、外国人の侵入を排斥する攘夷思想から、さらに討幕を考える各藩の下級武士たち(幕末志士)が現れ出した。

一方、1800年代中頃から、ヨーロッパ列強やアメリカが、世界制覇に向けて、その勢力をアジアに向け、伸ばしており、特に、イギリスは清国に対して、あくどい手口で「アヘン戦争」に持ち込み,完膚なきまでに清国を叩き、支配下に置いていた。そんな流れの中、当然、日本もヨーロッパ列強国やアメリカから狙われていた。アメリカからペリーの来航(1853年6月3日)によって、幕府は開国を迫られていた。かれらはその強大な海軍力や軍事力によって、日本を威嚇し、有利な通商条約を結ぼうとしていた。時の政権を任された幕府の大老井伊直弼は、「軍事力ではとてもかなわない」と判断して、朝廷の勅許を得ないまま、通商条約を結ぶ(開国する)という苦渋の選択を決断した。

ペリー来航

2 尊王思想の矛盾

そもそも、水戸学は朱子学(儒教の一派)の影響をもろに受けており、それを日本流にアレンジしたものだった。すなわち、日本国は、天皇(天照大神の直系子孫)を権威の頂点に置き、天皇から征夷大将軍の神勅を受けた幕府が、日本国の政治をつかさどり、その軍事力によって国体を守るという思想で、最高権威は天皇で、幕府は天皇から政治や軍事を委任されているという思想である。しかし、この思想は大きな矛盾を孕んでいた。

この思想は、平時においては何の問題もないが、有事には矛盾が噴き出す。つまり、幕末のように諸外国が開国を迫ってきて、いつ何時戦争になるか分からず、日本国が滅ぼされるかも知れないというような危機に面した時に、天皇の意向(または威光)を仰がなければならないという二重構造の矛盾である。二重構造のために意思決定が遅れるからだ。

幕府は日本の危機に対して、京都の朝廷や公家などよりはるかに敏感であった。大老井伊直弼の決断はその意味で正しかったと思う。しかし、答えはそれほど単純ではなかった。

水戸藩(幕府方)で生まれた「尊王思想」はその性格上、「攘夷思想」と結びつき、井伊直弼の決断は、朝廷や薩長の反感を買うことになる。朝廷の勅許を得ないで通商条約を結んだことと、また弱腰の外交姿勢を取ったことに対して、過激な尊王攘夷派は井伊直弼を「桜田門外」(1860年3月24日)で暗殺してしまう。わたしは、この「桜田門外の変」あたりから、日本の国にテロが横行し出したと考えている。その意味で、この日は日本の「テロリズム記念日」と言えるだろう。思想とは所詮、フィクション(虚構)である。無頼派作家の坂口安吾は「思想は棒切れに過ぎない」と言っている。棒切れでも恐怖から逃れるために、時には、振り回さなければならない。

次回は長州藩がなぜあのように過激なテロに走って行ったのかを考察したいと思います。

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